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田川生活/安部慎一


Web版「田川生活」

安部慎一

2008年1月


「味方」2008年1月8日

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 小説家北村大介五十七歳の味方は、妻と担当編集者Aである。二人共、厳しい忠告をしてくれる。作品に関しては、誰でも褒めてくれるなら、進歩向上は望めない。また北村も、誰にでも褒められれば喜ぶような単純な男でもない。ただ、この両者に褒められると嬉しい。ホッとして、又、書こうと気合いが入る。一本書くとAに電送するのであるが、「まあまあですね」と云われるようなら、それはまず良い作品のうちである。妻にいたっては近頃全く褒めない。「あなたが納得すれば、良いんじゃない?」と言を呈す。Aにしても、編集者でなければ全く褒めないであろう。北村は厳しい立場にいるが、書くことに関してはもう骨絡みになっている。中学時代から書いていた。彼は書く事が好きなのである。今は冬である。自室の電気炬燵が彼の居場所である。近頃は又、散歩を始めた。寒気が頭脳を活発化する。「あなた、近頃夜出入りしているけど、どこに行ってるの?」と妻は問う。「近くを散歩している」「それは良い事ね。あなた運動不足だから」「体重七十七キロだよ」「身長百六十五センチで七十七キロは太り過ぎよ。成人病になるわよ」妻の体重は五十一キロである。身長は百五十七センチである。「ダイエットをしないとな」「あと十キロは減らさないとね。ホント、太り過ぎは悪いわよ」今日の夕方から北村はダイエットを始めた。夕食にザルうどんを食べた。アメ玉を二個、口なおしに舐めながら夕食後の精神安定剤を口に入れ水を呑むとアメ玉も一緒に呑み込んでしまった。北村は馬鹿である。そんな理屈すら判らない。その事は妻には内緒にしていた。何と云って叱られるか判らない。午前0時になった。今夜は眠薬を呑む気になれず、いつもは午後七時に眠るのに起きている。そろそろ眠らないと、持病の統合失調症に悪い。闘病の味方も妻とAである。「寝ないと駄目じゃないですか!」とAの叱責が聞こえて来そうである。彼は眠薬を呑んだ。


「夜道」2008年1月7日

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 川上は小説の案を練ろうと、散歩に出た。しばらく歩くと他人の家の灯が観えた。暗夜である。彼は立ち止まり、自室に帰った。炬燵でジリジリと孤独を燃やした。妻の美枝子はもう眠っている。彼女は正月休みが明け、今日から仕事である。川上は年中無休で小説を書いている。昨日、美枝子は、一人で小倉に遊びに出掛けた。川上は昼寝をしていた。美枝子が帰宅したのは午後三時であった。うなぎのセイロ蒸しが土産であった。川上は半分覚醒せずにガツガツとそれを食べた。「美味しい?」「ああ、これ幾らだ?」「千二百円」「そんなに高いのか」「ゆっくり食べていいのよ」「千二百円もするなら、味あわないとな」と云いつつ川上はスピードを落とした。そうこうするうちに覚醒した。美枝子は普段着に着替えると、「あら、もう食べたの?」と満足げだった。「小倉、面白かったか?」「うん。たまに都会に行くと楽しいものね」「それは良かった。俺も一緒に行った方が良かったかなと思った」「うん。今度ね。でも今日は一人で十分だった。あなた眠そうだったし」「俺はトイレが近いからな。迷惑を掛けると思った」「それが難点ね。十五分に一度はトイレに行くものね。さあ、明日から仕事」「お前、正月休みも、あれこれ仕事があったな」「うん、充実した休みだった」「ははは。お前の働き振りには一目置くよ」「あなた、今食べたから、夕食は七時でいい?」「七時といえば眠薬を呑んで、眠っている時間だ」「じゃあ、六時半。あなた食欲があるわねえ。うらやましい」美枝子は笑った。「よく寝るし、よく食べるし、俺の精神病も嘘っぽくなったな」午後七時に川上は眠り、十二時に起床した。一日に一本小説を書くよう、決めている。午前二時、炬燵の中で夜道の孤独は燃え尽きた。あとは書くだけだ。彼はこの時刻、友人たちはどうしているかなと思った。


「脳」2008年1月5日

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 執筆に入ろうとしたが、脳が硬直しているので、松木は精神安定剤を呑み、脳に柔らかい波動を送り込んだ。薬は小説家である彼の強い味方である。夜八時に寝て、起床したのが夜十時である。書き始めたのは朝二時である。四時間、考えた末の服薬であった。気のせいではなく服薬すると文章がスラスラ書ける。長年、呑酒してきたので、脳が異常なのであろう。酒は九年前に止めたが、あのまま暴飲していれば、今ごろは死んでいるだろう。素面で一日を過ごす事はいまだに辛い事である。だが、酒は止めたのだ。痛飲を続けて呑んで暴れていたら、今頃は死んでいた。彼は自然と生を選んだようだ生きていれば、苦しい事もある。一杯で終わる酒ならば、今頃、家人も飲酒を許しているであろう。一杯が五杯になり、金を探して一万円札を手に取り、外へ出るのであった。酒場でブランデーを一壜空け、ふらつく腰で朝方帰宅する。起床するのは昼過ぎで、それでも案外の速度で小説を書き、夕方から、又、呑む。「金くれ」「お金は無い!」「もし探してあったら殺すぞ」「どうぞ」「糞っ!隠しやがったな」「日本酒を家で呑む分なら出すけど」「判った。そうする」
 彼はその通りにしたが、酒が入ると悪酔いして何事かに怒る。妻子は近づけない。松木の父は思い余って彼を精神病院に入院させた。松木は大人しく従った。妻は泣いた。三週間の入院だったが、彼は退院すると酒を止めた。脳は正直である。酒という物質が入ると、思考は停止する。今頃になって脳が考える力を彼に与えなくなったのは、薬を処方通りに呑まないせいだろう。しかし、酒なき今は、彼は四時間も小説が書けないと薬を呑む。脳は彼に罰を与えている。異常な脳でも心はある。いずれは薬を止めなければならない。午前三時になった。脳に支配されている執筆はもうじき終わる。今夜も又、田川氏のネオン街はまだ痛飲者が歩いているであろう。


「牛乳」2008年1月4日

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 午前三時起床、暗くて寒い中をライターを持ち、近くの図書館の裏手のベンチに座り、灰皿のシケモクを吸った。徒歩五分、帰り着くと冷蔵庫から牛乳のパックを取り出し、グラスに注いで、ゴクゴクと呑んだ。彼はミルクを呑んで育ったので、体が虚弱で、長じてからは酒を牛乳代りに呑んだ。今は酒を止めているので、牛乳を一月に五百ml呑んでいる。虚弱さには苦労した。彼は級友に誘われて中学、高校時代は空手と剣道の道場に通った。きわめて厳しい稽古をした。駅伝の選手に選ばれる程、逞しくなったが、幼年期に取り憑いた観念は五十七歳のいまだに消えない。彼は自分の事を弱い男だと思うのである。何かといえば、妻に泣き言を云う。「書けない」「あなたソレばかりね。ゆっくり書けば良いじゃない。私みたいに忙しければ別だけど」「俺は肝がこまいからなあ」「判ったから向こうへ行って。朝食の支度が出来たら呼ぶから」朝五時半である。彼は自室に戻り、炬燵に正座して二十分程待ち、朝食の卵焼きとブリの塩焼きを食べた。妻は六時半に出勤する。妻が出勤をすると一人きりになるので、淋しさを忘れるために、彼は小説を書く。小説書きが彼、松村大介の唯一の仕事らしきものである。どうしてこう自分は孤独に弱いのだろうか。炭鉱の大家族で育った彼は、周囲に甘やかされすぎたのかも知れない。それでも妻と二人で三人の子供たちを育て、彼らも一応自立している。松村は高校時代に妻と出会ったのであるが、判然とした意識を持つ彼女に頼もしさを感じた。正義感の強い女子だった。少なくとも松村は一目惚れであった。妻も松村に恋をしたのだと後に彼女から聞いた。こんなひ弱な男のどこに恋をしたのだろうか。「私の云う事を何でも聞いてくれそうな気がした」と彼女は云う。そうかも知れぬ。妻が出勤し、小説を書き始める前に彼は牛乳をもう一杯呑んだ。空のパックが残った。


「精神」2008年1月3日

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 弛(たる)んだ精神が松本の身中に黒く居座っている。もう一週間になる。原因は判らない。精神は魂を細分化した物質の集合体である。分子が人間の型を取っている。魂が念を働かせると精神は仕事が可能になる。正月、酒も呑まないのに魂は伸び悩んでいる。たまには酒も良いのだが、松本は禁酒して九年になる。タバコも心身に悪い。魂と精神を合体させて心と呼ぶ。正月三日、松本は意を決して机に着いた。彼の心は平和を念じている。人と人とが争ってはいけないのである。次男が元旦に帰省した。明日四日には東京に帰るという。松本には三人子供がいるので、結婚して孫でも出来ると、大家族になる。娘も正月には帰っていたが、今夜妻は博多まで娘を車で送りに出ている。あと三十分して午後九時半には帰宅するであろう。長男はどうしているであろうか。金が無いという理由で帰省出来なかった。電話を掛けると留守電になっていた。長女は今は雌のチワワと博多の六畳一間で同棲している。松本と妻は明日から又、二人暮らしである。松本はそれを思うとドキドキする。些細なことで又、夫婦喧嘩をせねば良いが。だが二人暮らしもそれなりに捨てがたい。元は二人暮らしであった。夫婦喧嘩は精神の戦いである。意が同調したがっているのである。意とは心の中心である。誰しも意がなければ、弛む。こればかりは、他人に委ねることは出来ない。意は各々の人の最低限のモラルである。仕事上の信頼関係もそこから生まれる。午後九時四十分になったが、妻はまだ帰って来ない。次男は明日の朝早く帰郷するのでもう寝ている。松本は漸く小説を一本書き終え、妻の帰りを待った。


安部慎一近況

フランスのアングレーム国際コミックフェスティバルで、フランスオリジナル編集による私の作品集『やさしい人』が「文化遺産賞」部門にノミネートされた。他のノミネート作品はロバート・クラムやトーベ・ヤンソン、平田弘史の各氏だそうだ。そのような諸先輩方と一緒にノミネートされるだけでも光栄というものであろう。ありがたいことである。