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| Web版「田川生活」
安部慎一
2008年2月
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精神科閉鎖病棟二〇六号室は六床のベッド部屋である。北村は隣床の若者と煙草を吸いに行く事だけが、精神の発露であった。詰所横の喫煙所は、煙草の煙がモウモウとしている。冬であった。北村は思い付き、窓を開けた。暖房の効いた喫煙所に寒気が流れ込む。窓には鉄柵がはまっており、上空には小さな白い月が見えた。「北村さん、寒いばい」若者が云うので、北村は窓を閉めた。その晩、北村は布団にもぐり込み、外界の妻子を思い出し、声を殺して泣いた。埼玉県所沢に棲んでいる時、宗教妄想が湧き、自分をブッダの再来だと思い込み、帰郷して入院となった。北村は三十二歳であった。自分はこのまま廃人になるのではないかと不安が湧き、辛かった。辛いというのは、まだマシな境地であろう。長期入院患者は皆、退院をしたがらない。外界に出ても働けないし、入院中は三食が確保されている。北村は入院と同時に、退院したくなった。医師に聞くと、それは正常な感情であるとの事であった。「北村さんの病気は薬で治りますよ。当初の診断では三ヶ月とのことでしたが、あと一ト月です。頑張りましょう」五十年配の医師は笑った。妻は週に二度面会に来た。「順調に快復に向かっているそうだ。薬が効いて考え事が出来なくなった」「それは、恐いことね。でもまだ、宗教の事、考えているような顔をしているけど」「俺は自分の過去性を追究して、こうなった。頭がボウッとして、病気の事ばかり気になる。俺は必ず退院出来るのか?」「あなたが、まだ自分の事をお釈迦様だと思っている事は、私には判るわよ。思うのは勝手だけど、退院したら働く事ね。あなたの天職は漫画家だと私は思うけど、まず、経済の立て直しが先決ね。入院費もかかるのよ」「お前の云う通りにする」「本当かしらね」「今の俺は自業自得の廃人だ。お前の助けが要る」「自分を廃人だと決めてかかる必要はないわよ」妻は泣き笑いをした。一ト月後、北村は三ヶ月振りに地面を踏んだ。 |
了 |
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洗面所の鏡で、北村は自分の顔を観た。洗面してもスキンクリームを塗らないので、白い粉がふいている。唇はひび割れている。冬の寒い顔だ。彼は深夜小説を書くのであるが、この冬の寒さに負けそうだ。炬燵にもぐり込み、つい眠ってしまう。しかし、三十分程で目が覚める。時計を観るとまだ夜の一時だ。彼は炬燵の上の原稿用紙に、勢いよく書き始める。夜食に義弟が差し入れしたプリンを一個食べた後である。北村は漫画家であるが、小説家でもある。今は小説を書いている。自分を客観視出来る人は、死後、楽であるが、客観のみで生きている人は死後、多少苦しい思いをする。北村は小説を書いている自分を客観する。今、書いているのだなと思う。意識が書かせているのである。体はその道具である。いつ死んでも良い。北村は毎晩、その思いを確認する。死後、あの世で何をするかは自由である。あの世の永さは、この世の千倍である。一時間が千時間である。人は相当修業して、この世に出るのであるが、あの世の事は全部忘れている。寝て観る夢を通過して、人は天上界に帰る。如来になれば、転生は自分の勝手で決めて良い。又、宗教的になりそうだが、書いておきたい事が沢山ある。しかし、北村はふと我に返った。自分は小説を書いているのである。頭がボウッとしていた。危険な事である。炬燵の上には煙草が一本置かれてある。彼は一日に一本吸う。いつ吸うかが、疑問である。背中が寒い。灯油ストーブをつけたいが、節約している。「人の為に生きる事が大事よね」と妻は云う。寝て夢を観ない人は天上界にいるのである。地上ではそれを忘れている。統合失調症で入院歴のある北村は、今でも入院している夢を時々観る。大抵途中で目が覚める。目が覚めると天上界に帰っているのである。寒い顔。奇妙な小説になったが、他に書く事が見当らなかった。 |
了 |
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昼間、小説家北村大介の眼から、涙がこぼれ落ちた。愛ゆえか、罪の意識か、不意に切なさが湧いた。彼は五分間、泣き続け、自然と泣き止んだ。彼以外、誰もいない借家の昼下りである。妻は勤めに出ている。大介が酒乱の時期も、子供たちを守って自分が叩かれ続けた妻である。それでも彼女は大介を見捨てなかった。彼は泣き止んだが、しばし頭部から肩にかけてジンとしびれて、それでも腹だけは減り、妻の作り置いた弁当を食べた。大介の好物のトンカツが入っていた。彼は五十七歳、妻は五十六歳である。弁当を食べ終わり、大介はタバコを一本吸った。酒は九年前に止めた。それまで彼にとって酒は命と同等、であった。何ら反省をしたわけでもなく、プツンと酒は止められた。反省の念はその後に湧き、しばしば後悔して泣いた。妻は彼が酒を止めた時、ポロポロと涙を落とした。その後も折に触れ、今の自分の幸せを打ち明けた。大介が「酒を止められて、本当に良かった」と云うと妻は「うん」と笑ってうなずく。元来、楽天的な妻である。大介は空になった弁当箱を流しで、洗った。その後、再度机に着いた。切なさはどこかに消えていた。彼はスラスラと小説を書いた。妻は午後六時に、帰宅する。一緒に妻の作った夕食を食べ、八時に大介は床に就く。目が覚めるのは夜一時である。不眠症の彼は病院で睡眠薬を貰っている。酒を止めると同時に、不眠症になった。1週間、眠れない日が続き、彼は精神科にかかったのである。これも運命だろう、と思った。酒を止められたときに彼は運命の存在を感じたのである。午後六時、妻が帰宅した。「ただいまーっ」「おう、お帰り」「今夜はカキのフライだぞう」「そうか。弁当、ありがとうな。旨かった」「うん。夕食の支度、すぐするから待ってね」「こう好物続きだと、又、太るな」「あはは」二人は笑いあった。 |
了 |
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ある日、ふと気付くとうつになっていた。朝起きると、辛さが襲って来る。一日が永い。木村は妻に「薬を貰おうか?」と頼ってみたが、「これ以上、精神科の薬が増えると本当に元に戻れなくなるわよ」とたしなめられた。そこで統合失調症歴二十五年の彼は四週間に一度の診察日には医師の前で、元気な演技をする。「状態は良いですよ」と医師は云う。彼はうつのことは編集者に連絡した。「ノンビリいきましょうよ」「小説、又、書けたら送りますので」「そうですね。うつだからって何もしないよりはその方がいいでしょう。頑張ってみて下さい。使えそうなものも二、三本ストックがありますから、焦らなくて良いですよ」だが木村は一日中小説のことを考えている。小説を発表できなくなったら世間とのつながりが消滅してしまうような強迫観念もある。結局、書くしかないのだ。彼は早朝炬燵に座り、小説を書き始めた。世情、うつの人が多いので、あえてここで苦しさを強調しても仕方ない。木村もその仲間入りをしたにすぎない。元々、うつの気はあったのを酒でごまかしてきたのかも知れない。二ヶ月前、薬が一錠減り、期を同じくしてうつの気が生じた。今は酒も呑まない。妻は気の持ち方だと云う。妻もうつになりかかったことがあるが、今は元気である。薬も呑まず、病院にも行かなかった。一方木村は精神科の安定剤を一日に三錠、睡眠薬を三錠飲んでいる。二ヶ月前、安定剤が三錠に減った時は、人と口もきけなかった。だが、精神病の方はある種の安定が見られて来た。うつが精神病の一つかどうか、にわかに判断はつかないが、木村としては精神病に入れたくない。精神病の副作用だと思いたい。この身が自由になれたなら、どんなに幸せであろうか。酒、思い起こせば、暗い酒の半生だった。彼は時計を見た。書き始めてから、十五分しか経っていなかった。 |
了 |
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午前二時、ジャンパーを着込み、頭部にはニット帽をかぶり、手袋をし千円札をポケットに入れて、多田は近くのコンビニに歩いた。五十七歳の彼は今でも煙草を一日に二箱は吸う。店員に千円札を出し、三箱買い、帰り路、お釣りの百円で缶ジュースを買った。自販機にもたれかかってジュースを呑み、タバコを吸った。真冬の冷たい夜風が身に染みとおる。彼の人生の目的は、小説を書くことである。何のために書くのかなどと野暮なことは聞かない方が良い。そんな質問をしても彼には答えられない。彼は帰宅すると、自室の炬燵に入り、精神安定剤を一錠呑んだ。彼は統合失調症だが、妻は「病気だと思ってなくて良いのよ」と云う。それはそうかも知れぬと、彼は近頃思う。服薬は習慣になっている。医師は彼の状態が良いと云う。一日四錠の薬が先々月から一錠減った。当初は戸惑ったが、ようやく慣れた。彼は朝、夕、晩の処方通りに呑まない。思いつきで呑むのだが、一日の分量は守っている。二十五年前、彼はTVの女性キャスターに恋をして「女房と別れる」と云い出し、両親の手で精神病院に入れられた。「少し、頭を冷やせ」と父は云った。今ではそのキャスターの顔も思い出せない。時の進行とともに彼は刻々と年を取って行く。彼は若い頃、宗教で救われたので、宗教家になりたいと思ったが、過去世がわからず、とうとう自分を神だと云い出して、又、入院させられた。今は神ではないとわかった。普通の人からしたら当り前だが、現在日本にある宗教団体二十万の教祖をほとんどの信者は神と云っている。宗教団体では当り前のことなのである。だが、神が肉体を持つわけがない。午前三時半、彼はタイトルを思い付いたので、小説書きを開始した。部屋は寒いが、暖房器具は炬燵だけである。彼は炬燵で寝起きしている。彼は決して孤独ではない。部屋の中には冷たい夜風も侵入して来ないのである。 |
了 |
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安部慎一近況 | |
フランスに続き、カナダで作品集の英語版が出ることになった。製作中の映画「美代子阿佐ケ谷気分」は来年公開予定だそうだ。 |
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