2008年3月
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
先月へ← →次月へ


田川生活/安部慎一


Web版「田川生活」

安部慎一

2008年3月


「貧乏小説家」2008年3月29日

pagetop

 「宇宙って、有限なの? 無限なの?」と妻が問うので「有限じゃないか」と坂本は答えた。「宇宙の事なんて、人間には関係ないよ。今生きている事に感謝すればいいんじゃないかな」「そうね。子供達も育ち上がったし、私も働くばかりじゃなく、何か趣味を持たないとね」「油絵でも画けよ」「私、絵が下手だから。絵は無理」二十四時間営業のスーパーに買い物に出掛けた帰り路の会話である。空には月と星が見える。貧乏小説家の坂本には何ら関係のない事である。昔、宇宙を神の体だと云った宗教家がいたが、坂本は馬鹿馬鹿しくて笑った。人間も宇宙も神の被造物である。又、坂本の書く小説を、日記小説とか、エッセイとか云う人もいるが、実は私小説である。帰宅し、妻は冷蔵庫に買ってきた食料を入れながら「これで三日分の食料を確保出来たわね」と云った。夕方から夜にかけて二時間程眠った坂本の目は覚めている。彼は自室で小説を書き始めた。妻が煙草を一箱買ってくれていたので、彼は嬉しかった。時刻は夜の一時である。「あなた、夜食たべる?」妻が覗いた。「いや、太るから止しておこう」「うん。じゃあ私、寝るから」「お休み」坂本は小説を書く手を止めなかった。小説は坂本の生きている証である。又、祈りでもある。今、自分も此処に生きている。皆も頑張ろうという私小説なのである。又、坂本より頑張って生きている多くの人に申し訳なさで書いている。彼は時に、くじけそうになると、神を思い又頑張る。彼は妻や子や友や先輩に感謝する。それは神の技である。神を思うと、感謝の意識が広がり、たかぶった焦りも、鎮まる。もうじき坂本も五十八歳である。坂本も寿命が来れば、死ぬ。彼はあの世でも、妻と暮らしたいと願っている。それは可能な願いである。そう坂本は信じる。ここまで書くと坂本の意識は無になり、彼は煙草を吸った。

「酒断」2008年3月26日

pagetop

 油断という言葉がある。油が切れるのである。そこで佐吉は酒断という言葉を思い付いた。アルコールを切るのである。呑んでいた当初からは思いもかけず、酒断に成功した彼は、九年後の今では、酒に酔う事が嫌である。若い頃、埼玉県所沢に妻子と棲んでいた彼は、当初働きながら、宗教団体を作ろうと思い、論文を一日に二十五枚ずつ書き、妻がガリ版で清書し、知人に配っていた。佐吉の勤め先は近くの玩具工場で彼はその頃、アラレちゃん人形を作っていた。二十九歳の頃である。すでに子供は三人いた。漫画家だった彼は収入の安定を求めて、工場に就職したのである。一方で、宗教に目醒めていた。団体の名称は神の会である。主にキリスト教を説いた。彼はイエス・キリストを主(しゅ)とする団体を作ろうと思っていたのである。幼稚園時代、キリスト教だった彼はイエスを、最も自分に近しく感じていた。遂に自分をキリストだと思い、広告し始めたので、妻は彼を精神科に短期入院させ、神の会は潰れた。以来三十年近く、彼は自分の過去世を探したがイエス・キリスト以外思い付かず、五度入院した。酒を止めてからは脳も落ち着き、神の会を再建するよう動いている。彼は小説を発表し、時折神理を混ぜた。五十七歳の彼は、郷里田川市に妻と二人で棲み、子供達が独立するのを見計らって小説に熱中した。イエスであろうとなかろうと、今の彼には関係ない。普通の教団を作ろうと思っていた。彼の仕事は小説書きである。小説を仕事に持ち、神理を説きたいと思っていた。人は皆、並列で生まれる。歴史に名を残すかどうかは、神の決めた運命である。勿論、運命に乗る努力は必要である。酒断もその一つであろう。努力しない人は、それだけの運命である。今、時刻は丁度午前〇時である。妻が夜食を差し入れした。「まだ、寝ないのか?」と佐吉が問うと、「うん、あと一時間して寝る」と妻は答えた。

「酔漢」2008年3月23日

pagetop

 独り言を云いながら、北島と同年輩の酔漢が、深夜十二時、北島より先行して歩いていたが、酒を呑まない北島の足の方が速く、抜き去り際、北島の方へ倒れ掛かった。北島は酔漢の腰を抱いて、「大丈夫ですか?」と聞いた。「俺は今、ロシアに行って来た」「ロシアですか?」「ああ、ウォッカをしこたま呑んだ。あんた、煙草を一本くれ」「ああ、いいですよ」北島はコンビニで煙草と牛乳を買い帰宅の途路であった。ロシアに行って来たというのは、市内の酒場でウォッカを呑んだという意味らしかった。北島は帰宅し、まだ起きていた妻に酔漢の話をすると、妻は「田川って変人が多いから。一番の変人はあなただけど」と苦笑した。「でも酒を止められて良かったね。あのまま呑み続けていたら、今頃はとうに死んでるわね」矛先が北島に向いたので、彼は「じゃあ、お休み」と云って自室に入った。北島は先刻の酔漢を思い映して、「俺の呑み方はあんな物じゃなかったな」と冷や汗をかいた。「お休み」と妻に云ったものの、北島は寝るわけではない。これから、それが仕事の小説書きである。彼は煙草を吸いながら、しばし構想を練っていたが、思い付かないので、いきなり書き出した。先程までは頭がボウーッとしていたが、書き出すと文章は思い付く。もっとも頭を使わないので、何のテーマで書いているのか全く判然としない。精神病の彼は薬を毎日呑んでいる。頭が働かないのは、薬のせいかも知れない。芥川龍之介は一日に二時間程しか覚醒しなかったと何かで読んだ。太宰治は自分の病気を脳病と書いている。夏目漱石も精神病であったらしい。自決した三島由紀夫も病気の一種であろう。北島は大宰のファンなので、若い頃酒を呑み過ぎて、精神分裂病になった。それは最悪の事故である。北島は、自殺しようとしない自分に、薄汚さを感じた。


「自己嫌悪」2008年3月20日

pagetop

 東京時代、無頼派漫画家北島洋一は酒場で酔態を演じ、翌朝は自己嫌悪で顔も上げられないのであった。それでいて、夕方になると昨日の酔態を打ち消そうと同じ酒場に行き、又、酔態をさらすのである。彼は酒を呑む自分を嫌悪した。祖父は洋一が子供の頃、「大人になっても酒を呑むなよ。酒は脳を溶かすからな」と教育した。まだ五十代から無職の祖父であった。洋一は高卒後上京し、酒徒になったのであるが、祖父の言葉は脳にこびりついて離れないのであった。自己嫌悪はそこから来ていた。遂に精神病になり、帰郷したのは祖父の死後であった。彼は以前にも増して多量に呑酒するのであったが田川では当り前のことで洋一の酔態も影が薄くなり、その分嫌悪せずにすんだ。彼は毎晩呑みに出るのであったが、三人の子供がおり、よく育ったものである。彼は精神安定剤を呑みながら町へ出るのであった。その頃はもう漫画を止め、父の跡を継いで縫製工場の社長をやっていた。酒代は経費で落とした。漫画の不安定な収入から安定した収入になり、妻もその点のやりくりが楽になった。結局彼は精神科の入退院をくり返し、四十八歳、今から九年前に断酒した。妻は泣き、子供達は「お父さん、偉いよ」とはしゃぐのであった。早く酒を止めて良かったと、洋一は思った。約三十年間の呑酒生活にピリオドをうったのである。だが酒を止めてみると働く気がしなくなり、彼は妻に社長になってもらい、自分は小説を書き始めた。本来ならば漫画を画くべきであったが、妻の裸身を画く漫画家であった彼は、田川では漫画は無理であった。又、五十七歳の彼は九年間の小説創作ですっかり漫画から足を洗って、それはそれで仕事だと思うのである。だが、彼はまだ漫画への未練がある。死ぬまでにもう一度漫画家生活をやりたいと思うのであった。双肩に漫画の期待がのし掛かり、小説を書きながら、彼は又、自己嫌悪するのである。


「罠」2008年3月17日

pagetop

 金銭欲、名声欲等、様々な欲がある。若い頃、名声欲の罠にはまった小説家北村大介は、止まらない創作意欲で、心の安らぐ時がない。彼は徹夜明けの午前九時、せめて身体だけでもリラックスしようと、公園に出向いた。彼は聖書、仏典等を研究したことはないが、先に死んだイエスや釈迦、モーゼ、マホメット等の偉人の死を悼み、ベンチに腰掛け、しのび泣いた。五分間程、涙がこぼれ落ちたが、これ以上泣いても仕方ないと思い、右手で涙を拭き、立ち上がった。その時背後から「大介ちゃん」と近所のハンヤのKが、声を掛けた。Kはちゃんと焼酎の一升壜と、紙コップを二個手に持っていた。二人はベンチに腰掛けた。「あんたが酒を止めた事は近所の噂で知っちょるけんが、一杯位良かろう」「いや、酒は呑みません」「じゃあ、少しだけ付き合ってくれ。俺もカミさんが死んで、淋しかたい」Kは紙コップに焼酎を注ぎ、チビチビと呑んだ。大介五十七歳、Kは六十二歳である。余りにも早すぎるKの妻の死である。大介の妻は元気に働いている。「Kさんは再婚しないんですか?」「そりゃあ、俺はカミさんに操を立てる。再婚など、するような男じゃなか。俺には酒があるたい」三十分間程二人は話し、大介は帰宅した。初春とはいえ、大介の部屋は寒かった。彼は炬燵のスイッチを入れ、一日一本と決めている煙草を念入りに吸った。そのお陰か、眠気が差した。彼は炬燵に横になり、一時間半程、眠った。イエスが十字架に架かる夢を観て、寝ながら号泣していた。涙は耳に流れ込んでいた。彼の創作を続けさせようとする罠から逃げる道は、偉人と神にすがるしかないと、思っていた。彼は、自業自得の罠に、若さゆえ堕ち込んだのである。自力ではどうしようもなかった。このまま突っ走ると死後は地獄行きではないかと気に病んだ。彼は自室で独り、妻の帰りを待った。


「日陰者」2008年3月11日

pagetop

 「あなた、独り言?」妻が洋介の部屋の戸を開け、苦笑した。「歌を歌ってたんだ」洋介は顔をしかめた。「病気が再発したのかと思った」妻は苦笑したままである。「こんな夜中に歌わず、昼間歌えばいいのに。昼間はあなた一人だし、大きな声で歌っていいのに」「いや、一寸、人の声が聞きたくなってな。自分の声でも聞こうと思って」洋介は憮然と云った。「それに俺は統合失調症だ。昼間歌える身分じゃない」「昼間歌った方が健康的なのに」「いや、心配かけた。夜中に歌など歌うものじゃなかった」洋介は炬燵の上の原稿用紙に視線を向けた。小説が書きかけてある。「御免。仕事中だったのね。私、先に寝るけど」「ああ。お休み」「あまり根を詰めないでね。歌を歌ってリラックスしてたのよね」「リラックス出来る程、人間が出来てないよ。お休み」洋介が笑うと妻は安心したような顔をし、戸を静かに閉めた。妻の部屋は食堂をはさんだ向こうにある。洋介は黙って原稿用紙の上の書きかけたところまで、読み返した。高速度で、続きを書きだした。二枚小説は都合二十分で書き上がった。彼は再度読み返して、東京の編集者に電送した。部屋に戻り、自作の案を練り始めた。彼は五十七歳である。焦る歳でもないが、他にする事がなかった。精神病歴は二十五年である。その間、五度入院した。元来、酒が弱いのに無茶呑みをして、このざまだ。十年前、酒を止めた。それからが本格的な闘病生活だった。苦しいが、これも天罰であろう。彼は酒を呑むと人柄が変わり、家族に迷惑を掛け続けた。思い出すと、申し訳なさで昼間身の置き所がなく、泣き暮れる。家から一歩も出ない閉じ籠りである。昔、彼は東京で表舞台にいた事もある。当時、彼は漫画家だった。埼玉に移り、あらぬ事を口走るようになり、両親の棲む郷里に帰り、入院となった。炬燵の中に潜り、案を練りながら、彼は又、泣いた。


「精神科喫煙所」2008年3月9日

pagetop

 酒乱で、精神病院に初めて入院したのは、木戸が三十二歳の時である。すでに子供が三人いた。朝、昼、夕、晩、薬が投与される。体が鉛を呑み込んだようにキツい。診察は週に一度である。木戸は体がキツい旨、訴えると医師は副作用止めの薬を増やした。流石に医師である。木戸は体が楽になった。詰所の隣は喫煙所になっている。酒を呑みたいという気は起きなかったが、一日一箱配給される煙草は吸った。夜九時に眠薬が投与される。木戸はそれでも眠気がささなかった。喫煙所のTVが消されるのも九時である。煙草は十一時まで吸える。時刻と共に一人去り、又、一人去り、木戸は夜十二時、喫煙所で、独り考えていた。自分はここまで堕ちた。家族は自分を見捨てないだろうか。酒は止めよう。漫画は画けるだろうか。彼はその頃、漫画家だった。手が幽かに震える。ともかく早く退院したい。午前一時、考えていても仕方ないので病室に帰る。二一〇号室、八人収容のベッド部屋である。彼は布団に横になり、朝七時起床時まで眠った。木戸は三ヶ月で退院した。退院すると薬を止めた。三ヶ月を過ぎる頃から、又酒を呑み、再入院した。それのくり返しで都合五回入院した。五度目の退院後、薬を処方通り呑み、酒を断った。時期だったのか、酒は簡単に止められ、以来十年経った。木戸は五十七歳になっていた。四週間に一度の診察と薬貰いに通院している。酒を止め、闘病が始まった。毎日が永かった。彼の病名は精神分裂病である。薬の服用で、頭は常にボーッとしている。「木戸さんの場合は、ボーッとしているくらいが丁度良いのです」と医師は云う。木戸は漫画が画けなくなり、小説を書き始めた。生活費は妻が面倒をみた。木戸は深夜、自室で小説を書きながら、病院の喫煙所に独りでいた事を思い出した。あの頃よりマシだろうと思い、涙が滲んだ。


「獄」2008年3月2日

pagetop

 地獄の最下を、獄と云う。地上のことである。また、天国の最下も獄である。統合失調症入院歴五回の小説家、北上一朗は勝者の心得をあきらめた。せめて敗者にならなぬよう念じて、深夜執筆している。天国、地獄は、地上をして一点である。努力だけが彼に課せられた仕事である。外は初春の細かい雨が降っている。「ああ、疲れた」彼は独り言を云った。彼は人生に疲れていた。炬燵で寝起きするせいか、体も実際に疲れていた。小説が一本書き上がる喜びを、天国の最下にしたいと思った。五十七歳の彼は、偉大なるあの世へ帰りたいと願っていた。少し位の疲れは、精神病院の地獄に比べると、何程の事もない。彼は酒を止めて小説書きのみに専念しているので一日十本の煙草のみしか散財しない。十本の煙草は妻により、配給される。「あなた、負け犬のような顔をしてるわね」と妻は笑う。「負け犬?」「うん。お酒止めて辛い?」「全然、呑みたいという気が起きない。煙草は必要悪だが」「あまり根を詰めないでよ。尤も妄想が湧くのは、お酒のせいだったみたいだけど」「医師も、俺は分裂病じゃなく、アル中じゃないかねと云っていたけどな」「あの無頼派の北上一朗が酒を止めるなんて、考えた事もなかった」妻は笑いながら、涙ぐんだ目を人差し指で拭いた。「御免ね、負け犬だなんて失礼な事を云って」「しかし、そう観えるのは誤解じゃないよ。ただ、顔でそう観える程には、今が辛くもないけどね。多少、疲れてはいるが」「はい、今日の分の煙草十本、私、仕事に出るから、昼御飯はいつものように弁当作っておいたから、食べて。じゃあ」妻は忙しい。北上は独りで、朝食を食べたあと、台所で食器を洗った。朝食後の安定剤を一錠呑んだ。子供たちは成長し、彼は妻と二人暮しである。彼は炬燵につき、煙草を一本吸った。俺が先に死んだら、あの世から妻子を応援しようと、彼は思った。


安部慎一近況

そろそろ暖かくなってきたようだ。暖かいとどうも調子が狂う。気をつけなければ。