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田川生活/安部慎一


Web版「田川生活」

安部慎一

2008年4月


「浮かれ者」2008年4月30日

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 午前中、隣町のUから電話があった。「済みません、お仕事中に。小説、書いてました?」「いや」「え、へへ。薬が増えたら、躁病になってしまって。急に北島さんの声が聞きたくなりまして」「躁病は精神病の中では最もタチが悪い。電話切るよ」「え?」北島は近頃、ウツ病で小説も書けずにいる。浮かれた同病の患者の相手はうとましい。「午後、もう一回、電話したら駄目ですか?」「好きにしたらいい。じゃあ、な」北島は電話機を置いた。二人共、病名は統合失調症である。Uは五十四歳、独身、童貞で無職、働き者で独身の兄と二人暮らしである。ある時、北島が電話を掛け「障害者年金が貰えないなら、生活保護を受けた方がいいんじゃないか」と云うと「それも考えていますが、兄貴を一人にするのが可哀相で」と答える。「お前、倒錯してるよ。迷惑掛けているのは、お前の方だろうが」「はい、済みません。今度の診察日に医師に相談してみます」「ソーシャル・ワーカーがいるだろうが」「ええ、いますが、皆、若くて頼りなくて」「ああ、そうか。この件はもう二度と、お前に云わないからな」「済みません」それ以来、Uに電話を掛けていなかった。燃えない奴に、時間を掛けるなと、歌の歌詞にもある。その日の午後は案の定、二度目の電話は掛かって来なかった。Uが障害者年金を貰えないのは、発病したのが二十歳を過ぎていたためと、働いていないので年金をかけていなかったためである。Uの兄はもう三十年、Uの面倒をみている。もうじき、定年である。北島の面倒は妻がみているが、発病して二十六年、そのうち二十年会社で働いていたので、六年前から障害者年金は貰い、働く事を止め、今は小説を書いて日々の生活としている。近頃、書けない日が続き心身共に疲れている。「少しはリラックスしないと」と妻は心配するが「俺はリラックス出来ない性格だから」と答える。北島は毎日、煙草の火のように縮こまっている。

「白昼の月」2008年4月29日

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 睡眠導入剤を呑んだのは午後七時で、すぐに床に就き「ザ・イエローモンキー」を聴きながら五分後には眠っていた。目が覚めたので時計を見ると午後九時であった。それから二時間、覚醒しないので、北島は東京の出版社の編集者Aに電話をした。Aはまだ仕事をしていた。「頑張ってますね」と北島が云うとAは「そろそろ小説が書けそうですか」と、心なしか元気が無いのであった。「頑張ります」と笑って北島は電話を切った。書かねばならない。案は全くない。タイトルも決めず、いきなり書き出した。一方でAの事が気になった。何事かあったのでなければ良いが。午前中に電話をした時、風邪を引いているという事であった。ああ、疲れていたんだなと、風邪の事を思い出した。今日は二度、Aに電話をした事になる。北島は一日に一度は用事も無いのにAに電話をする。迷惑は承知だが、北島は折に触れて我がままである。そうした性癖をAは知っている。仕事慣れしている四十三歳のAの応対が、北島には有り難い。北島は五十八歳である。昼間は一日中、頭がボーッとしている。朝、安定剤を呑むので、そのせいかも知れない。だが、小説の事が頭から離れない。他に仕事の無い北島は、小説を書く事だけが、仕事である。書けない日は一日がウツウツと永い。このまま自分は潰れてしまうのではないかと、思う事もある。夜の十二時になった。北島は昼間、書けない心身を持て余し、公園に行き、葉桜の上に白い小さな月が出ているのを見た。快晴であった。だが、そうした風景は彼に意味をもたらさない。煙草を一本吸って帰宅し、又、自分の部屋に閉じ籠った。彼は北海道に棲む友人、Sの事を思った。この時刻、Sはまだ眠っているだろう。Sとは二十歳の時に出会い、以来三十八年間のつき合いである。午前十二時十分、北島はようやく一本書き終えた。又、永い一日の始まりである、だが、ともかく一本書けたのだ。嬉しかった。

「酒」2008年4月25日

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 夜十一時半、北村がコンビニに牛乳と煙草を買いに行くと、店の前の広場に座り込んでいた二人の若者の一人が「おいちゃん、酒呑んで来たんですか」と質問した。北村は「いや、俺は酒が呑めんから」と嘘をついた。十年前に酒を止めたのだが、その前の三十年間、呑んだくれていた北村である。彼は帰宅し、自室に入り机に着くと、「知床旅情」を歌った。「呑んで騒いで」という箇所を歌う時、北村は泣いた。酒を愛し、仲間らと自由に酒が呑めた頃が懐かしかった。彼は禁酒に踏み切った自分を偉いと思えなかった。脳の弱い彼は呑むと家族に迷惑をかけるので禁酒したのである。今更、又酒を呑みたいとは思わないが、今の自分が哀れである。しかし、家族は喜んでくれているのだからと思い袖口で涙を拭いた。並の酒乱ではなかった。彼は冷や汗をかき、煙草の封を切った。煙草も止めたい。彼は取り出した一本の煙草をジッと観ていたが、買ったものは吸う他ない。煙草はさほど家族を苦しめないので、止められないのかも知れないが、五十八歳の北村は四十年間の喫煙で、体が疲れている。学生時代に剣道、空手、駅伝で心臓と肺を鍛えていたので、少しくらいの疲れは平気である。しかし、当時は煙草を吸うようになるとは考えもしなかった。酒も同様である。子供の頃の彼は酔っぱらいが嫌いであった。それは、昔の事である。彼は煙草を三本続けて吸って、それが仕事の小説を書き始めた。題材は三本吸う間に考え済んだ。文体にとらわれて意味の無い小説を書くよりも、作者の生きざまを書いた方が正しいと彼は考えている。昔の自分に戻る事は善である。彼は酒に溺れた自分を後悔はしていない。それはそうした時代である。禁酒はしているが、酒に対する意識は昔の自分に戻ったのである。昨日の夕食の時、妻が「私、あなたと夫婦になって一度も不幸だと思った事ない」と云った。彼は「済まんな」と答えた。

「脳障害の男」2008年4月24日

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 幼年期、ひきつけを二度起こし、九大医学部で診て貰うと、脳波に狂いがあるとの事で、安定剤を呑まされ、小学、中学時代の北村はボーッとした男だった。高校時代には薬を止めていたが、今度は多動性の躁病にかかり、授業中ジッとしておれないのであった。その頃、新入生の美枝子と恋愛し、将来を約束して、高卒後、結婚した。二人は上京し、阿佐ケ谷で生活を始めたが、すでに漫画家としてデビューしていた北村は酒を覚えた。脳に障害があるのに、呑むものだから、酒乱であった。その頃、宗教家のSに出会い、彼は子供を作るよう、勧められた。彼は云われた通り、子供を三人まで作ったが、その頃から統合失調症と診断された。所沢の借家に転居していた北村は帰郷し、精神病院に入院した。彼は死後、地獄へ行くと妄想を持ち、冬の最中、雪で凍った地面の上を裸足で走り、博多に棲むSの元まで助けを求めに行こうとして、父の手配した警察につかまり、その後入院したのである。入院生活は辛かった。退院後は又、昔のように薬を呑み、頭はボーッとして知性、理性が働かず、毎日酒を呑んだ。朝まで呑み、酔っ払ったまま、診察を受けた事もある。それが二十年以上続き、彼は都合五回入院した。五十八歳の彼は十年前、ふと酒を止めようと思い、断酒は成功したものの、薬の作用で今も思考力がほとんど無い。酒を止めた事を、妻子は喜んだ。小、中学時代の大人しく素直な北村に戻ったのである。しかし、高校時代の活動的な北村を知っている美枝子は薬を止めるよう云った。「一生、廃人のまま終わるの?」「漫画はもう無理かも知れんが、小説を書こう。漫画で書き残した事があるんだ」「漫画の方がいいと思うけど。思考力が無いのに小説は無理よ」「薬は呑む。もう入院はマッピラだ。そのうちに小説も書けるようになるさ」「判った。応援する。あなたが酒を止めたので子供達もホッとしてるから」「ありがとう」北村は久し振りに笑顔をみせた。

「いい人」2008年4月23日(その2)

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 明け方煙草を吸いたくなったが、手元に一本も残ってない。北島は金を探したが、見つからないので、妻の部屋を覗いた。「何?」「いや、金が欲しい」「居間の引き出し」「あ、判った」確かに、居間の引き出しに金の入った袋が収まっていた。「よく、探してよね」「まだ朝の五時だ。寝てくれ」起きてきた妻に云った。「カレーライスを作っておくと約束したわよね。これから作るから」「お前、そこまで気を使うようになったのか」「トラウマよ。昔のあなただったら、約束を破ると怒ったから」「お前、いい人だな」北島は涙ぐんだ。「俺の事など、気にするな」「一緒に暮らしてるんだもの、そうはいかないわよ。さあ、煙草を買いに行って」うながされて北島は外へ出た。春だが、三寒四温という通り、今朝は寒い。彼は煙草を買うと、走って帰宅した。中学時代に駅伝の選手をやっていた北島は太ってはいるが、時に走る。「あら、早かったね」妻はようやく覚醒したようだった。「ああ、走ったから」「太っているのに走ると、ヒザを痛めない?」「今のところ、何ともないが」「しかし、よく太ったわね。高校時代は痩せていたのに、まるでサギね」「あ、はは」「じゃあ、カレー作っているから、後で食べて。先生、小説の仕事が待っているわよ」又、うながされて、北島は自室に入った。煙草を、まず吸った。酒は止めたが、煙草は止められない。彼は小説を書き始めた。長年の精神病の薬の副作用か、近頃、頭がボーッとして、全く思考力が無い。彼は勘で、書いて行く。このまま、思考力が無いと、五十八歳の北島もやがては認知症で死ぬかも知れない。それも、精神病で暴れた天罰だろう。北島は昔、漫画家だった。あの時、父親が事業に失敗しなければ、今頃は田川などに棲んでいないだろう。父の借金の返済のために帰郷し、精神病にまでなった。台所からカレーの匂いがした。彼はふと覚醒した。食欲だけはボケていないようである。

「思路の混乱」2008年4月23日(その1)

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 頭部に雑念が生じない代りに、思考力も無い。精神安定剤は恐ろしい。その安定剤を多田はもう二十年以上服用している。薬を呑んでいるのに妄想が湧き、入院した事もある。彼の病名は妄想型精神分裂病である。今は自分の事を釈迦やイエスやモーゼと思わない。毎日が平穏で、暇である。朝は五時に起床し、小説を書き、九時半に隣町のOに電話をする。Oも精神病である。十時半に東京の編集者Aに電話する。話す端から忘れて行く。全く信用のおけない多田という男である。腹だけは一人前に減るので、空腹になるとすぐに料理をして食べる。満腹になり、煙草を一服すると僅かに幸せである。「まるで、子供みたいね」と妻は苦笑する。多田は五十八歳の小説家志望者である。昔は漫画家であった。「今の俺に漫画は無理だ。感動する対象が無くなった。時に風景などを観ると画きたくなる。古い建物なども、画いてみたくなるが」「小説で何を書こうとしているの?」「判らん。思路が混乱している」「惜しいと思わない?」「それは、思うが。まあ、小説が書けるから書いている」「酒を呑み過ぎて、脳が混乱してしまったのよね。私の目から観ると病気は快方に向かっているようだし、いずれ漫画も画けるわよ」「漫画が仕事だったように、今度は小説を仕事にしたいと思っている。お前の云うようにいずれ又、漫画も画くかも知れない」「あなた、一点集中主義だしね」「別に主義じゃない。脳が単純な事しか思いつかないだけだよ」「うん、お休み」昨夜、自室で床に就く前の今での妻との対話である。自室で眠りに入ったのは夜の二時である。思考力の無い頭で、必死に小説の案を探していた。起床して原稿用紙に向かうと、ドンドン書けた。タイトルが寝起きと共に、思いついたのであった。目に見えない力が働いている。エネルギーは放出するよう、出来ているようである。多田は一本書き終え、放心した。

「手の震え」2008年4月21日

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 インスタントの「魚介のカルボナーラ仕立てのスパゲティ」を夜中の三時に作ったが、パスタをゆでる際に、塩を入れすぎて、食すると塩辛いのであった。洋一は仕方なく全部食べた。スパゲティ一人前では満腹にならないが、夜食である。彼は皿を台所に運び、皿洗いは後でしようと思い、そのまま部屋に帰り、煙草を一服した。妻は自室で眠っている。彼は初めてスパゲティを作り、失敗して妻の存在の有り難みを感じた。ゆっくり眠れよと、彼は妻に念を送った。昨日は日曜日であった。だが、妻は夜の十時まで仕事をした。妻は風呂に入り、自室へ行く前に、コーヒーを呑みながら、ボンヤリ自分の前に腰掛けている洋一に、「あなたにとって漫画って何だったのかしらね?」と苦情を云った。洋一は「判らんよ。お休み」と云い立ち上がった。漫画家の洋一はこの五年間、作品を発表せず、小説ばかり書いている。人懐かしさで妻に近づくとロクな事はない。五十八歳にもなって、人恋しいなどとは、妻からすれば馬鹿である。洋一は仕事一途の妻美也子に同情するが、構ってもらえない時は残念である。仕事の事で頭が一杯の美也子は、それでも主婦業を怠る事はない。掃除、洗濯、料理等、熱心にやる。だが、彼女からすれば、一日の僅かな時間しか小説を書かない洋一が怠け者に見えるのであろう。漫画とは何かと聞かれても、芸術としか答えようがない。それは他に能のない洋一の立つ瀬である。彼にとっては小説も同等の立つ瀬である。彼はある日、突然手が震えて漫画が画けなくなった。それは漫画に固執する自分の運命を変えるような出来事であった。長年の統合失調症で薬の副作用が出たのである。医師に相談したが、副作用止めを一錠増やされただけで「漫画というのは大変でしょう。絵もストーリーも自分で考えるのでしょうもんね。医者の立場としては頭を使う仕事は賛成出来ません」と忠告された。洋一は発病した運命を信じ、医師の忠告を無視して、性懲りもなく小説を書くのである。

「台所」2008年4月19日

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 深夜一時半、妻から頼まれていた、工場の芯張り作業を終え、木島は隣の工場から、自宅に入った。腹が減ったので、台所に立ち、卵焼きを作り、自室で御飯を食べた。食は文化だなと、彼は思い腹八分目で満足した。もとより小説も文化である。人の心を救う仕事なので、彼は東京の出版社の存在に、感謝している。若い頃から、自分の考えという物を大事にして来た木島は、漫画、油絵、歌なども手がけた。今は小説が彼の興味の中心である。統合失調症である彼は、入退院をくり返して五十八歳までの人生を生きて来れた。あと何年生きるか、知らないが、今を生きる事に専念している。退院後、自宅の台所に立ち、コーヒーを入れた時の喜びは、今も忘れられない。軍人が戦場から帰宅する時の思いを理解出来る気がする。彼は小説を書き始めた。一枚書き、煙草を一本吸った。二枚目に入った。プロというのは不思議なものだなと彼は思う。何枚書いても疲れないのである。彼はそうしたプロ達の作品を読む事はほとんどない。影響を受けやすい自分の性格を、彼は知っている。自分なりで良いと、彼は思う。妻は「プロになる心算なら、人の作品も読まないと」と忠告する。彼女は縫製業のプロである。「小説ぐらい、自由に書かせてくれ」彼は反論する。「あなたみたいに自由な人は、他にいないのに」「小説も漫画も、プロを目指す事が目的じゃない。芸術なんだ。俺はそう思って、書いて来た。人に認められたいとか、新人のうちに思う事じゃないんだ。ただ一生懸命に書く。それが創作の目的だよ」「あなたの云っている事が正しいなら、どうして統合失調症になったの?」「運が悪かった」「あなたって、悲しい人ね」妻は泣き笑いをして、台所に立った。その背中は淋し気であった。木島は二枚小説を一本書き終え、すぐに出版社に電送した。彼は妻の部屋を覗いた。妻は平和に眠っていた。

「清涼」2008年4月17日

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 内職回りを終え、車は寿司処“さき田”に向かった。妻と二人で回転寿司を食べていると、二人でいる事に木村はふと幸せを感じた。二人はもう歳なので、夜の営みは無い。「お前、俺が太ってから、セックスアピールを感じなくなったのか?」帰路木村は妻に聞いた。「ううん。あなたが精神病になってから、もういいやって思ったの」妻のその返事に木村はホッとした。五十八歳の木村は、性欲が湧かないが、妻が不満足ではないかと前々から思っていた。「もう百%性欲は無いのか?」「そうね。子供も大きいし、今更って感じ。百%無いって云ってもいいわ」「良かった」「うん。あなたの疲れ方を見てると性欲なんて持てないわよ」妻は笑った。木村は助手席で、帰路買ったタコ焼きを食べた。「俺は食欲もあるし、そんなに疲れてないがなあ」「うん。でも精神病って感じよ」「そうか」木村は暗い顔になった。発病して二十六年になる。少しは治っているかと思っていた。車は自宅に着いた。「さあ、くつろぐぞう」妻の美枝子は勢いよく車を降りた。木村はトボトボと妻の後から家に入った。彼はすぐに自室へ行き、気になっていた小説を書き始めた。一日書かないと、病気が再発しそうになる。書かないと、罪の意識を感じるのである。その日は朝から夕方まで机に着いていたがとうとう一行も思い付かず、彼は午後四時頃、東京の出版社に電話を掛け、担当のAと話した。Aは木村より歳下だが、木村は信頼している。彼と話すと、清涼感が湧く。その感じは美枝子と共通している。「あら? 寝ないの?」美枝子が戸を開けタオルを取りに来た。「うん。一寸、気になってな」「ふうん。書けない時は無理しなくていいと思うけど」「いや、頑張る」木村が云うと彼女は、「たまには風呂に入った方が良いわよ。私、先に入るけど、いい?」「うん」木村は彼女に愛想笑いをした。

「真夜中の泥酔者」2008年4月16日

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 二十四時間営業のコンビニの横の路上に、六十歳前後の酔っぱらいが眠っている。煙草と牛乳を買いに来た北島は、ふと困った。深夜でしかも小雨が降っている。放置していて死なれても後味が悪い。「おいちゃん、起きない!」北島は男を抱き起こし、傘に入れた。「家は何処かい? 送ってやるばい」「ういーっ」「しっかりしない!」北島は肩を貸して、男を近くの団地まで連れて行った。男は少々酔いが冷めて、住居の団地までようやくたどり着いたのである。一人暮らしのようであった。一応責任を果たしたので、北島は目的のものを買いにコンビニまで戻った。五十八歳の北島は、自分もあんな事があったなと、少し背中がゾッとした。路上に寝ていて、救急車を呼ばれた事もある。十九歳で酒を覚え、四十八歳まで毎晩呑んだ。朝から呑み始める事もあった。家族は悲しんだが、どうしようもなかった。当初は格好つけて呑んでいたのだが、いつの間にか本当の酔っぱらいになっていた。それでも一日に数時間、素面のことがあり、彼は漫画を画いた。この数年は画いていない。彼は十年前に酒を止め、精神安定剤を呑み始めた。すると近頃は手が震えて、北島漫画の持ち味である精密な描線が画けなくなった。そこで、小説を書き始めた。創作意欲だけは人並みにあった。翌晩、コンビニに行くと、又、同じ場所に昨夜の酔っぱらいが眠っていた。雨は降っていなかったので、彼は放って置こうかと思った。だが、結局、彼は男を団地まで連れて行った。昼間、小説の案を練るために公園に行くと、その男が背広を着て焼酎を呑んでいた。北島の事は覚えてないようであった。北島は男の素性が気になったが、話しかける気にはならなかった。男は一カップ呑むと、ベンチに横になった。北島は、かつての自分を思い出し、自己嫌悪した。今ならまだ素面の人生が間に合う。北島はそう思うと、男を残して公園から去った。

「組長」2008年4月11日

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 次男が中学一年の事である。不登校になったので、多田の妻が理由を何とか聞き出すと、地元のヤクザの組長の息子にいじめられているとの事で、多田は日本酒を二升持って、その組長を一人で訪ねた。組長はよって自分の腕を短刀で斬ったと云い、包帯をしていた。「あんた、度胸があるね」と組長は多田に云った。「子供が可愛いというのは誰でもそうでしょうが……」多田は組長の妻の差し出した酒をクイクイと呑みながら、笑った。「息子にはあんたの息子の件を注意しておくよ」「済みません。よろしくお願いします」「まあ、せっかくだから腹一杯呑んで、帰りなさい。安心しなさい。悪いようにはしないから」「私はあなたとは友達つき合いをしたいですね」「うん。いいよ。俺もあんたが気に入った。時々、呑みに来ると良い。今度は酒場に呑みに行こう。今夜は組長の集会があるので無理じゃけんが」多田は日本酒を五合程呑んで、タクシーで帰宅した。「もう大丈夫だ。二、三日休んで登校しろよ」と次男に云った。「お父さん、ありがとう」次男は笑った。「明日から学校に行く」「そうだな。お父さんは先方のお父さんと友達になったから」「うん」多田は四十二歳で、元漫画家の会社社長だった。すでに持ち家があり、妻と三人の子供と暮らしていた。長男が「お父さん、相手がドスを出したら、どうする心算だった?」と笑って聞いた。長女は「お父さん、頑張って!」と云った。妻は「昔からあなたは向う見ずだったから」と苦笑した。「でもありがとうね」と云った。それから組長とは二度、三度と一緒に酒を呑んだ。次男と組長の息子も仲良くなった。「息子の事はよろしく頼みますよ。俺はこんな稼業だから」と組長は多田に云った。「あんたとだけは喧嘩したくないな」と笑って組長は云った。それから二年後組長は癌で死んだ。多田は葬儀に立ち会い、硬い顔で組長の死に顔を見た。

「深夜の一服」2008年4月10日

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 メーカーの都合で、平日に一日休まざるを得なかった縫製工場社長の妻の美枝子であるが、彼女は一人、朝から働き、夕食は午後八時になった。夫の忠嘉は不眠症が慢性化して九時に寝て十時半に起床し机についたが、何か急に人恋しくなり、編集者に電話した。五分間ほど会話して勇気を得た忠嘉は、机に再度つき、一気に書き始めた。漫画家としては一部に名を知られた彼であるが、小説家としては新人である。時折漫画を画きたくなるが今は小説を書く方が良いと、心は判断を下している。彼は五十八歳の新人小説家なのである。彼は何事も、チャレンジする癖がある。この五年間、休みなく小説を発表してきたが、読者の反響は全く無い。美枝子に食わせてもらっているので、彼は近頃美枝子の方が、上ではないかと思い始めた。万事に気がつく美枝子である。統合失調症の忠嘉は診察日「女房に全く頭が上がりません」と云うと医師は「それが普通です。逆だと問題です」と笑って答えた。漫画を画かない事を、美枝子は許している。二人は高校時代に出会い、すでに四十二年寄り添っている。「私は何も漫画家のあなたを愛したわけではないから」「済まん。頑張る」二人の間に子供を得てから、彼は漫画を止めて、サラリーマンとして十八年間程、外で働いた。彼の漫画は私漫画で、単行本が出てもあまり売れない。子供のために彼は働いた。生活の安定が一番大事だと彼は判断した。美枝子はそれを許した。漫画家として彼は二流だったのであろう。才能があれば漫画を画き続けたに違いない。サラリーマンになってから彼はその仕事以外考えなかった。だが彼は人間関係で苦しむ事もあった。自分は漫画家だったのだというオゴリが何処かに残っていたのであろう。彼は結局、気に入らない上司を殴って退社し、小説を書くのみの生活になった。夜も更けた。彼は疲れを覚え、好きな煙草を一服した。

「幽かな男」2008年4月9日

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 何をしても影の薄い、漫画家北村真介は、漫画家仲間では酒呑みとして有名なだけである。彼はまず西洋紙に絵コンテを画き、写真撮影をして制作に入る。近頃珍しい根の詰め様である。しかし、発表されても、さして佳い評価は得られない。それが口惜しいらしく、毎日酒を呑んで、その時だけは浮かれている。酒は夜呑む。昼間は陽光から隠れるように制作をする。又、スランプの時は転職を考える。長期に渡るスランプの時は、ガードマンをして酒代を稼ぐ。同棲相手の洋子は彼を支えるように働いている。活発な洋子に北村は全く頭が上がらない。「あなた、私と結婚する気はあるの?」「あるが、こう漫画が不評では将来お前は苦労するぞ」「もう苦労してるじゃない。あなたはせめてお酒を止めるべきよ。そうして結婚しましょ」「酒と、結婚か。両方は無理だな。同棲のままじゃ駄目か?」「駄目。いつまでもこんな生活は続けられない。結婚しましょ」「判った。酒は少し位なら良いか?」「一日に二合位ならね。あなた毎晩七合も呑んでいたら、世の中に認められる前に死んでしまうわよ。二十三歳にもなって自分で健康管理も出来ないの?」「俺はこれでも漫画家と云えるのか?」「漫画家の中では私はあなたの漫画が一番好きよ」北村は嬉しかった。一人でも認めてくれるなら、立つ瀬もある。彼は酒を二合に減らした。彼は洋子を籍に入れた。式を挙げるのは先の事である。彼は一日に千円ずつ貯金を始めた。子供がいたら楽しいだろうと思い、出産費用に充てる心算だった。やがて洋子は妊娠し、二人は帰郷した。彼は就職し、漫画は人に忘れられた。彼はホッとした。所詮自分は真の芸術家ではないのだ。今後もサラリーマンとして地道に生きて行こう。生まれた赤ん坊は男児であった。二人目、三人目を生んだ。次男、長女の順である。彼は生まれて初めて自分以外の者である洋子と子らを愛した。

「散る桜の中で」2008年4月7日

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 余り余裕が無い。金も生命も精神病も、創作活動も友との関係も。小説家北村一平は家近くの公園のベンチに腰掛け、昼下がりに吹く春の風に追われて散る桜を見ながら、煙草を吸っていた。一本の煙草の中に、彼は「将来」という言葉を感じた。若い頃は酒に溺れ、そんな言葉など感じる間もなかった。彼は幸せなような、死にたいような切ない気持ちになった。十分間、桜の花の夢幻の中に彼はいたが、やがて涙を拭きゆっくりと立ち上がった。五十八歳になって、将来を感じるなど情けない。彼は帰宅し、自室に入ると書きかけの小説をジッと読んだ。「破るほどのものでもないな」彼は一人ごちた。酒を止めて十年目になる。それは近所の噂になる程、彼は毎晩酒を呑んでいた。「結局、金が無いのに呑むから、悪酔いしたんだな」昨夕、妻にポツリと云った。「ふうん」妻は北村の目を覗き込んだ。「又、呑みたくなったの?」「いや、冗談は止せ!」「安心した。あなた近頃、元気が無いから」「才能はあっても、世の中に認められない人が沢山いる。俺は運が良い。それが、淋しくてな」「どうして?」「俺は人に互して小説が発表されれば満足なんだ」彼は若い頃から才能の無さを幽かな努力で解決して来た。だが近頃になって、人は彼のことを鬼才とも天才とも呼んでいる。そんな馬鹿な事は無い。ただ彼が書き続けるのは、人生の証のためである。だがそのために家族は犠牲になった。間違いなく彼の責任である。彼は精神病である。入院も五度した。妄想型精神分裂病、彼はある日から自分の過去世に興味を持ち、誰だろうかと追究するうち、変になった。彼は苦しかった当時を思い出しながら、小説の続きをサインペンでスラスラと書き始めた。六時、妻が勤めから帰宅した。二人でささやかな食事をした。彼は昼下がりの夢幻の桜の中にいた自分を思い映して、ああ、俺の人生ももうじき終わるなと、又、切なくなり、下を向いて妻子、友との別れの日を思い、その日を祝福出来るよう、小説を頑張ろうと決めた。

安部慎一近況

少し調子が優れなかったが、過去世の追求を止め、落ちついた。近頃は鈴木常吉のCDをよく聴いている。

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