西岡智(西岡兄妹)
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*短篇小説
「陽光」
第五回
イラスト/ 西岡千晶 |
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まだ9時にもならないというのに、気温は30度を超えていた。ホテルから駅へと向かう道すがら、太陽はもう十分な角度をもって、建物の影は壁にへばりついたまま日除けにもならない。熱気は確かな質量をもってぼくを圧する。朝からぼくはもううんざりとしているのに、女の足はことのほか軽い。道ゆく人たちの顔が暑さで溶けていく。
お盆の休みを利用して昨日の夜からこの街に来ていた。観光ではない。この西の大都市は、これほど観光には似つかわしくない場所はないだろうというほど、日常性と雑然さ、無計画性に満ちている。
「一度でいいから、あなたと行ってみたい場所があるの。わたしが小学生時代をおくった町」
断る理由がなかっただけのことだ。
髪の毛の間からだらりと汗が垂れ落ち、掌がじっとりと濡れている。女が手を握ろうとするのを反射的に避けた。「汗かいているから」言い訳するとぼくの顔を覗き込んで「気にしてるの?」と女が笑った。特徴的な笑い方だ。さほど大きくもない口が、笑うと口角をすっと横に伸ばして、少しだけバランスを崩す。整った大人びた顔が、一瞬、幼児のような危うさをみせる。女はぼくの手を取って、ぼくの半歩先を歩く。こうしたことについては、この女はぼくにほんの少しの「拒否」すら許すことがない。そしてぼくはそれが苦痛ではない。
駅に着く。整列乗車などという風習がこの街にはないらしい。ホームにはまるで無目的としか思えない集団が、所々でたむろっている。濃い茶色をした古めかしい電車がホームに入ってくる。ドアが開いた途端人が変わったように一斉に人々がなだれ込む。早い者勝ちがこの街の秩序だ。一歩遅れてぼくたちも電車に乗り込む。始発駅だというのに座れなかったということで、女が少し憮然としている。
車窓の枠の中を見たこともないというか、まとまりのない風景が流れていく。「この街嫌いだな」とぼくが言うと「私も嫌い」と女の顔が少し歪んだ。背中にかいた汗が冷たい。
競艇場のある駅で、汗とヤニの匂いとを連れて大半の客が降りていった。がらんとした車両にはぼくたちの他、数人の客がいるだけだった。外の景色が街から町のそれに変わっていく。同じような規格をした住宅地がだらりと広がっている。どこにでもあるような郊外の風景。女がぼくの手を一瞬強く握った。
「県境を越えたよ」
何か張りつめたものが女の表情の上を掠めたような気がした。
各駅停車しか止まらない、小さな駅で降りた。ホームの上にはぼくたち二人しかいない。駅員さえいなかった。もわりとした熱気が顔にかかる。エスカレータを降り、自動改札を出る。機械音の他には駅員室の奥でわずかな人の気配がしただけだった。
異様な雰囲気がする町だった。たぶん駅前に商店街が、いやそれどころか一軒の店も無かったからだろう。ジュースの自動販売機が一台ぽつりと突っ立って、駅からすぐに住宅地が続いていた。
「どこで買い物するの?」
「みんな車で買い物に行くの」
女が答える。
陽の光はますます白く、影は狭く色を濃くしている。女は始め少し戸惑ったような仕草をみせたが、記憶の糸をほどくように、徐々にしっかりした足取りになり町の中を抜けていく。ぼくの汗に濡れた手を引きながら。駅を出てから誰ともすれ違わない。この決して小さくはない住宅地で人のひとりも見かけることがない。休日のもしかしたら40度はあろうかという炎天下に、住む以外何も用事のない町でわざわざ外に出る人もいないのだろう。
背の低いこの町には不釣り合いな大きなマンションの前で女が止まった。
「ここにね、Tちゃんていう子が住んでいたの。髪の毛を腰まで伸ばして、手も足も細くって、いつも可愛いワンピースを着てたの。羨ましかったな。わたしはおかっぱで男の子みたいな格好をさせられてたから。ただひとりの友達だった。しばらくは年賀状のやり取りとかしてたけど今どうしてるのか知らない」
語尾を投げ捨てるように言う。
二階建てのアパートを指差す。
「ここがわたしたちの住んでた社宅」
一階のベランダに届くほど、背の高い雑草が茂って、人の気配が感じられない。
「誰も住んでいないのかな?」
蝉が鳴かない。
「そうみたいね」
「ここに塾があってね、わたしんちから一分もかからないのに、わたし自転車で通ってたの。どうしてだと思う?みんなが自転車だったから、一人違うのが嫌だった」
ぼくの答えを待つ間もなく女は話し続ける。何の感慨も懐かしさも感じていないような口調で淡々と思い出話をし続ける。
「ここ児童図書館。唯一のわたしの居場所だった所。一人でいても許される場所。閉まってる、涼もうと思ってたのに、お盆だからね」
「小学校、いちばん嫌いな場所。机を隠されたことあったな。いじめられてたのかな、でもだいたいわたしが勝ったけどね」
そう、いじめられていたのではないだろう。ただ異質なものとして拒絶されていた、そういうことだと思う。ぼくは女の子供時代のことを想像して、何となく納得していた。
他人の思い出という迷路を、一時間ほど引っ張り回されてぼくは疲れ果てていた。髪の毛が陽光を吸い取って、触ると熱い。
「ちょっと休もう」
「そうね、ごめんね」
そう言って女は川縁の遊歩道にぼくを連れて行った。この町で唯一緑らしい緑のある所。護岸工事された細い川に沿って、両脇にソメイヨシノだろう葉をたたえた木々が真っ直ぐ光の白に霞むまで続いている。
「ほら、キラキラ」
ぼくには感じることのできない微かな風を受け取って木漏れ日が僅かに揺れている。
「どうしてぼくをここに連れて来たんだい?楽しい思い出でもなかろうに」
「わたしが今、幸せだからだよ。幸せなわたしが不幸だった子供のわたしを救い出してあげるの」
陽光にけぶるようにぼんやりと、女の言葉を理解している。
「あなたの子供時代にまで責任を持つことはできないよ」
いつもぼくはこういう言い方をする。
「責任もってなんて言ってない」
女が少し不機嫌になる。たぶん話の内容ではないのだ。「あなた」という言葉に女は反応している。これは二人が付き合い始めて以来の「懸案」だった。ぼくは女を名前で呼ぶことをしなかった。大抵は「あなた」で済ませていた。女が何度か訊ねたことがある。「どうして名前で呼んでくれないの?」
ぼくはこんな風に答える。
「ぼくたちは二人ぼっちだからね。世の中にたった二人ぼっちだから、名前なんていらないんだ。『ぼく』と『あなた』だけあれば充分なんだ」
「どうしてあなたがそう孤独ばかり求めるのか、わたしには分からない。わたしはあなたといて孤独じゃないのに、あなたはわたしといても孤独なんだ」
「ぼくには孤独が必要なんだ。ぼくには『孤独』と『自由』だけが必要なんだ」
「わたしは?」
「あなたは特別」
「嘘つき。知ってる?『自由』の反対概念は『孤独』なんだよ」
以前、そんなやり取りをしたことを思い出していた。でも今はそれで喧嘩になることもない。「親しさ」と「諦め」は案外と近い所にあるのだ。
ぼくたちは手を取って川沿いを歩いた。女はぼくにあまり過大な要求はしない。ただこの「手をつなぐ」ことだけは絶対的な義務としてぼくに課していた。
「海が近い?」
「どうして分かるの?」
「ほらボラがいる」
川幅が広がっただけ浅くなった川の表面近くを、頭だけやけに大きいやせ細ったボラが三尾泳いでいる。
10分程歩いた。急に視界が切り裂かれて海に出た。奇妙な海だった。沖に張り出した人工島が水平線の代わりに人気ない高層ビル群を置いていた。波も潮風もない湖のような海。海辺で一組の家族が遊んでいる。子供は二歳くらいだろうか。女が靴を脱いで海に入っていく。しばらく足元を見つめている。振り返る。
「波がないよう!」
もう一度足元を見つめ、
「ねえ、波がないよう!」
そういえば以前、ただ一度、海に遊びに行ったとき、ああして海に入って、足の間を、指の間を光りながら動いている砂を何十分も見つめていたことがあったのを思い出す。そうあの女はそんな何でもないことにさえ幸せをみつけようと、いつも一所懸命なのだ。何ともいえない罪悪感のような感情がこみ上げてくる。
女の足の砂が乾くのを待って帰路についた。陽は丁度てっぺんあたりで揺れている。潮風のない海岸は照り返しと海藻の茹だったような匂いで余計に暑く感じる。
「楽しかったよ、ありがとう」
妙に過去形だけを強調するように女が言う。
「ねえ、もう一カ所だけどうしても行きたい所があるの、開いてなかったら諦めるから」
ぼくが拒否しないことを女は知っている。堤防の一段高くなった所を綱渡りのように両手を広げて女は歩いて行く。
「K貝類館」
その看板は堤防のすぐ下にあった。
「ここ!」
女が走って階段を駆け下りていく。ぼくが追いつくと女はぼんやりと大きな鉄門を見上げていた。
「閉まってる、お盆だからかなぁ?それとももうやってないのかなぁ? 子供の頃から一度入ってみたかったの、でも何だか怖くて、子供は入っちゃいけないような気がして、結局一度も入らないまま引っ越しして」
「しょうがないよ、諦めよう」
この「しょうがない」という言葉をこの何年、この女に対して何度使ったことだろう。変な既視感のような感覚が通り過ぎていく。
そんなやり取りを聞いていたのだろうか、鬱蒼と茂った庭の中から老婆がまるで浮き出すようにして現れた。あまりに草木に同化していて気づかなかったのだろう。重い鉄門を開けてくれた。
「いいんですか!」
女が振り返った。満面の笑みだった。こんな笑顔をここしばらく見たことがないなと思った。
「どうぞどうぞ、せっかくいらしたんですから見ていってください。ごめんなさいね、今クーラーを入れますから、暑いですけど」
そう言って老婆はぼくたちを招き入れた。ドアの前に巨大なシャコ貝の殻が置かれている。中に入ると真っ暗だった。老婆が一部屋一部屋電灯を点けて回る。何千個もの貝殻が反射して光った。
「ねえ、キラキラだよ! キラキラ!」
女が声を上げた。
そこには何百、何千もの名も聞いたことのない貝殻が、たぶんこの収集家の独自の基準に従って整然と並べられていた。確かに美しく興味深い。ぼくも子供の頃であれば女のように、素直に楽しむことができたに違いない。隣りの部屋に入る。貝だけではない、鳥やムササビや狐やカブトガニの剥製がアフリカやアジアのお面とともに並べられている。もちろん大量の貝殻と一緒に。続きの間には何に使われたのか分からない道具類や、玩具のような物たちが、これもまた大量の貝殻と一緒に、雑然と、でもたぶん何らかの秩序をもって置かれている。女はお気に入りの幾つかの貝殻を見つけたようでその間を行ったり来たりしてはじぃっと見つめている。
クーラーが効いてきたのだろう。少し寒い。いやぼくはたぶんぞっとしていたのだ。ここにあるのはすべてが過去だ。ここは過ぎ去って命を失った過去の集積場なのだ。巨大な墓場だ。でもぼくはここを立ち去れない。女があんなに目を輝かせて、ぼくには見せたこともないような笑顔でこの場所に魅了されている。
一時間もそうしていただろうか。老婆が麦茶を入れてきてくれた。
「ここにあるのは、死んだおじいさんが、世界中回って集めてきたものなの。この家とこの貝殻以外何にも残してはくれなかったけど、こうして喜んでくれる人が今でもいるんだからね、うれしいね」
ぼくは老婆の話に耳を傾ける。おそらくぼくが感じている不快感を気取られぬように臆病な薄ら笑いを浮かべて。
庭の方から子供の声が小さく聞こえる。夏休みで祖母の所に遊びにきたのだろうか。だとしたら彼が残したものはこの死体の山だけではなかったのだと、少しだけほっとしていた。
女が何枚かの貝殻を選んで、ぼくがお金を払う。「はい」と女の掌に貝を乗せる。「ありがとう」女が微笑む。そしてぼくたちはその場を辞す。庭に出るとやはり子供の声がする。陽の光が容赦なく肌を刺した。やけに蚊が多い。
老婆が門まで見送ってくれる。
お礼を言おうと振り返った途端、大きな金属音をたてて、ぼくの後ろで鉄門が閉まった。そこに老婆はいなかった。ただ陽の光がじりじりと白く風景を焦がしていく。女の方に向き直った。鍵の閉まった鉄門の、錆びた鉄格子の向こうに、女が少しずつ遠ざかる。ぼくは檻の中の狂った猿のように鉄柵を揺する。熱くて白い光の中で、女の輪郭線が細い糸がすり切れていくように消えていく。
「○○○!」
女の名前を初めて呼んだ。
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おわり |
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西岡兄妹情報 |
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本当に長いご無沙汰でした。いろんな人にごめんなさいです。今、なぜかこれまでになく仕事モードです。今年から来年にかけていろいろやりたいと思ってます。でもただの躁病かもしれません。
(西岡智) |
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