西岡智(西岡兄妹)

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Vol.5



花火/西岡智 *短篇小説

「花火」

第二回

イラスト/ 西岡千晶

 8月も終りになると、日の暮れるのが急に早くなる。まるで街が一段すとんと沈み込むようにして夜がやってくる。日の光とネオンの灯りが交差して、建物の陰が黒みを増していくそんな時間。仕事を終えたサラリーマンや得体の知れぬ夜の住人たちが、どこからかわき出してきて、さびれかけたこの小さな歓楽街もそれなりに賑やかしくなってくる。ぼくに当てがあった訳ではない。ただそこにその時間、ぼくが居合わせて、そしてただ歩いていた、それだけだった。
 がらりと目の前で、一軒の小料理屋の開き戸が乱暴に開けられて、中から男が一人よろめきながら滑り出てきた。店の中から一本突き出された手が、その男を明確に拒絶していた。男は片膝を深く折って、なんとか転倒を免れた。たちの悪い酔っぱらい客が追い出されでもしたのかと思ったが、どうもそうでもないらしい。男はゆっくりと時間をかけて体勢を立て直し、しばらくそこに立っていたが、以外としっかりとした、ただ踵を跳ね上げるような癖のある歩き方で歩き出した。
 和柄のよれしおれたアロハを着た、小柄な初老の男。薄く垂れ下がった胸の筋肉と、異様に出っ張った下腹が、服の上からも見て取れた。袖口から伸びた細くたるんだ二の腕には、色のかすれた入れ墨が皺で形を崩している。中途に伸びたごま塩の坊主頭、貧弱な体に比べて極端に大きい。一見して、年老いて落ちぶれたやくざ者。
 ぼくは男の顔を見た。口を真一文字に結び、垂れた目蓋に半分覆われた目はその奥で鋭く光っていた。ぼくは男の顔に強い意志のようなものを感じていた。そしてたぶん今その意志は、一膳の飯と一杯の酒に向けられているのだ。その男はぼくの興味を引いた。なぜそんな気になったのかわからない、ぼくは男の3メートルほど後ろをついて歩いた。歩き方のせいだろうか、男の頭が上下に小さく振れている。
 二件目の店のドアを開ける。男がその大きな頭を中に入れた途端、罵声が浴びせられた。中年の太った女がカウンターの中で皿を振り上げている。2、3人の客が居たが、いつものことなのだろうか、気にも留めない。男は店の中に入ることもできずにドアを閉める。そしてまた歩き出す。
 男が立ち止まる。どこにでもあるチェーン店の居酒屋。考えあぐねているのだろうか、男は立ち止まったまま動かない。意を決したように、急に早い歩調で店の中に入っていく。「いらっしゃいませ」と若い女の声が微かに聞こえる。5、6分ほど待った。男がここも追い出されることを確信していた。その通り、制服を着た二人の若い店員に両脇を抱えられ男が出て来た。そして投げ捨てられるようにして放り出された。体を反転させ尻をついた。そのまま崩れるように地面に仰向けになった。酒の一杯にもありつくことができたのだろうか、男の頬がほのかに赤い。しばらくそのまま倒れていた。誰も気にかけるものも居ない。ぼくもそうだった。またこの男が立ち上がって歩き出すのを、何も考えずにただ待っていた。
 ゆっくりとスローモーションのように男が立ち上がる。男の目の光が消えていた。口をだらしなく半開きにした、ただの途方に暮れた老人のようにしか見えなかった。急にこの男に対する興味が消えていくのを感じていた。この街にはもう、この男を受け入れてくれる場所など無いのだ。ぼくは何を期待していたのだろうか。男は惚けたようにまた歩き出した。ぼくはただ惰性で後をついて歩いた。
 10メートルほど歩いた。男が止まる。
 始めに膝が折れた。頭が胸につくほど、細い背中が小さく丸まった。両手で腹を押さえる。男の体がほんの少し膨らんで、突然、ぱんと小さな音をたてて弾けた。男の体は無数の小さな青白い光になって、四方に飛び散った。一瞬そこだけ明るくなったような気がしたが、その薄い光はネオンの灯りにかき消されて、誰にも気づかれること無く消えていった。男が立っていたそこには、もう何も残ってはいなかった。
 ぼくはこの一人の人間の人生の終りを、妙に納得して、でも何の感情も無く、その残像をぼんやりと眺めていた。そしてなぜかしばらくの間、その場所を立ち去ることができなかった。 
おわり


西岡兄妹情報

11月にパロル舎より『死んでしまったぼくの見た夢』という絵本が出ます。今までの作品とは少し毛色の違ったお子様でも読める作品になると思います。
もう一つ、10月7日から25日まで荻窪のカフェギャラリー「ひなぎく」で個展を行います。お問い合わせ・DMのご希望は西岡兄妹HPまで。どちらもよろしくお願いします。
http://www.ztv.ne.jp/bro-sis/
(西岡智)